抄録
審美修復は、否定の営みである。人工物らしさが否定され、過去の治療の痕跡が否定される。本稿は、この否定に二つの形式があることを示す。インドの文法学に由来し、ツォンカパ(1357〜1419)が空性の規定に用いた区別、すなわち否定対象を排除したうえで他の法を含意する周遮(paryudāsa-pratiṣedha, implicative negation)と、他の法を含意しない無遮(prasajya-pratiṣedha, non-implicative negation)である。ただしツォンカパにおいて無遮は無力ではなく、否定対象の否定そのものは証明される。白すぎる歯を否定したのち、自然な色調や適度な不揃いを規格として措定すれば、否定は周遮に落ち、作り手の様式が症例を越えて反復される。ウィリー・ゲラー(Willi Geller)が「典型的なウィリーのクラウン」という評言を退けた理由を、本稿はこの構造から読む。無遮としての審美とは、人工物としての違和感を否定したのち、その後ろに代替の規格を置かず、患者本人が残る状態を指す。治療の成功は、別の規格の定立ではなく、その否定が成立していることそのものである。あわせて、否定対象の画定が診断にあたること、および本稿が影響関係を主張するものではないことを述べる。
一. 問題の所在
修復物が「作品」になることがある。
ここで作品と呼ぶのは、それ単体で鑑賞に耐える完成度を備え、口の中で自らの存在を主張している修復物のことである。写真に撮れば美しく、単体で見れば申し分がない。しかし装着された口元を正面から見たとき、そこだけが前に出て見える。
この現象は、技術の不足によるものとは限らない。むしろ、高い技術によってこそ生じる。作り手が自らの様式を持ち、それを反映させるほど、修復物は独立した存在としての性格を強める。
ウィリー・ゲラー(Willi Geller)は、この問題を早い時期に自覚していた。2010年の対談で、彼は40年以上前の出来事を語っている。同僚が彼の手がけた修復物を見て「これは典型的なウィリーのクラウンだ」と述べた。その言葉を忘れたことはなく、気に入らなかった、と彼は言う。自分の手がけたものが「典型的なウィリー」に見えることは望まず、自然に見えることを望んだ、と述べている(1)。
この述懐には、通常の職人観からすれば奇妙なところがある。自らの様式が認識されることは、多くの職業において達成の証である。ゲラーはそれを、達成ではなく失敗の徴として受け取った。
本稿は、この転倒を、否定の形式という角度から扱う。審美修復とは、何かを否定する営みである。しかし否定には二つの形式があり、そのどちらを採るかによって、結果はまったく異なる。
この区別を明確にするための枠組みとして、ツォンカパ(Tsong kha pa Blo bzang grags pa, 1357〜1419)の論じた無遮の概念を用いる。仏教論理学の術語を借りるのは、思想の同一性を主張するためではない。臨床の場で起きていることを、既存の語彙よりも精確に記述できるからである。この点については第六章で改めて述べる。
二. 否定の二つの形式
インドの文法学の伝統において、否定は二つに区別される。
一つは周遮(しゅうしゃ、paryudāsa-pratiṣedha、定立的否定)である。「白くない絹」と言うとき、白を否定すると同時に、赤や黒といった他の色があることを肯定的に含意している。否定対象を排除したうえで、他の法(chos gzhan、否定対象の否定以外のもの)を含意する形式である。
もう一つは無遮(prasajya-pratiṣedha、純粋否定)である。否定対象を排除するが、他の法を含意しない。
ここで注意を要するのは、無遮が無力な否定を意味しないことである。ツォンカパにおいて、無遮は他の法を証明しないというだけであって、否定対象の否定そのものは確かに証明される(2)。
この点は、ツォンカパによる「唯(tsam)」という語の分析に現れている。「否定対象を唯否定するのみである」と言うとき、この語が排除しているのは、否定対象の否定以外のものが定立されることであって、否定が定立されること自体ではない(3)。
ツォンカパは、これを湖の例で説明する。「湖の上に煙がない」という表現は、湖の上の煙を排除するだけであって、それ以外の何かを含意しない。にもかかわらず、その排除において、煙の不在は確かに示され、確定される。排除と、不在の確定とは、一方がなければ他方もない関係にある(4)。
本稿が引くのはチベット語の原典であるため、術語の対応を記しておく。周遮はチベット語で ma yin dgag、無遮は med dgag にあたる。英語文献では、それぞれ implicative negation、non-implicative negation の訳語が通用している。
ツォンカパは、空性をこの無遮として捉えた。事物が自性(じしょう、svabhāva、それ自身の側から独立して成り立つ本質)を欠いているという不在のみを確定し、その背後に他の法を措定しない(5)。
なぜ無遮でなければならないのか。空性を周遮として捉えれば、自性を否定した後に「空性という名の何か」が残る。その何かが新たな執着の対象となり、実体視の構造がそのまま温存される。否定したはずのものが、名を変えて戻ってくるのである。
この区別は、否定の強さの違いではない。徹底の度合いの問題でもない。否定した後に他の法を置くか置かないか、という構造の違いである。
三. 否定対象の画定
無遮を正しく行うためには、何を否定するのかを正確に見極めなければならない。ツォンカパは、否定されるべき対象、すなわち所遮(しょしゃ、dgag bya)の画定を繰り返し強調した(6)。
否定が過剰であれば、日常的な因果関係までが否定され、虚無主義(断見)に陥る。否定が不足すれば、実体への微細な執着が残る(常見)。無遮とは、世俗の現象を維持したまま、その上に投影された自性という誤った見えかただけを正確に消去する操作である。
審美修復に置き換えると、この画定はそのまま診断にあたる、というのが本稿の立場である。
否定してはならないものがある。歯そのもの、咬合の安定、歯周組織の健康。これらは修復が成立するための条件であり、否定の対象ではない。見た目のために咬合を無視すれば、修復物は遠からず破綻する。これは断見に相当する過剰な否定である。
否定が足りない場合もある。過去の治療が残した違和感の原因を特定せず、形だけを新しく作り替える。この場合、消したはずの不自然さは、材料を変えても再び現れる。原因が否定されていないからである。
では、否定されるべきものは何か。人工物としての違和感、過去の不適切な介入の痕跡、そして再びやり直しになるのではないかという患者の予感である。本稿は、これらを画定する作業を、審美修復における診断の内実と考える。
四. 周遮に落ちる審美
ここから、否定の形式が実際にどう分かれるかを見る。
まず、否定ですらない場合がある。極度に白く、隙間なく整い、左右対称に並んだ歯。この様式は、外部に理想像を置き、それを口元に加える。基準は患者の側にはなく、様式の側にある。撮影という条件の下では、この様式は目的に対して正確に組み立てられている。問題があるとすれば、様式そのものではなく、様式が生まれた場所を離れたときに何が起きるかである。
より注意を要するのは、これを批判する側である。
白すぎる歯を否定する。左右対称を否定する。ここまでは共有されている。しかし否定した後に何を置くか。「自然な色調」を置き、「適度な不揃い」を置き、「年齢相応の摩耗」を置く。これらが規格として機能した瞬間、否定は周遮になる。否定対象を排除したうえで、他の法を含意しているからである。
周遮としての審美には、次の徴候が現れる。作り手が自らの様式を持ち、症例を越えてそれが反復される。患者が変わっても、仕上がりに共通の特徴が見える。そして、その特徴が作り手の名で呼ばれる。
「典型的なウィリーのクラウン」という言葉が指していたのは、この状態である。ゲラーがその言葉を好まなかった理由は、謙譲ではない。自らの様式が独立した存在として現れることは、彼が否定しようとしたものが、彼自身の側に戻ってきたことを意味するからである。
同じ構造は、彼に倣う側にも生じる。ゲラーの様式を規格として措定すれば、それもまた周遮である。否定の対象が入れ替わっただけで、構造は変わっていない。
五. 無遮としての審美
では、無遮としての審美とはどのような状態か。
人工物としての違和感を否定し、その後ろに代替の規格を措定しない。残るのは、患者本人である。
この定式は、抽象的に響くかもしれないが、臨床的には具体的な含意を持つ。第一に、目標とする形は、外部の規格からではなく、その患者の顔立ち、唇の動き、隣接する天然歯、咬合の様式から導かれる。第二に、作り手の様式は、症例を越えて反復されない。第三に、成否の判定は、修復物が良く見えることではなく、修復物が見えなくなることによって行われる。
無遮は無力な否定ではなかった。排除と、不在の確定とは、一方がなければ他方もない。作為の痕が排除されることと、その口元が自然に見えることとは、二つの別々の達成ではなく、同一の事態の両面である。治療が成功したとは、白さという別の法が加わったことではなく、違和感の否定が成立していることそのものを指す。
ゲラーの言明は、この方向を指している。彼は、笑顔はその人と調和しているべきであり、自然が作るよりも白い笑顔であっても、その人と調和していれば美しいことがありうる、と述べた。そして調和は審美においてきわめて重要である、と続けている(7)。
注目すべきは、白さの絶対値が基準から外されている点である。白いことも、白くないことも、それ自体では基準にならない。基準はその人との関係にのみある。これは、否定した後に他の法を置かない形式そのものである。
同じ対談で、ゲラーは審美のパラメータを問われ、健康、生命力、強さ、美しさ、幸福感を挙げている。ただし彼は、これらを体系として提示していない。列挙の後に、身体的に美しくなくとも親切で善良な人は美しいと感じられると述べ、パラメータは多くありうる、と結んでいる(7)。
ゲラーの五要素をあらかじめ確定した体系として引く記述が流布しているが、原典では「多くありうる」と開かれたまま終わっている。列挙を五つで閉じないこと自体を、規格を措定しない態度の現れとして読むことができる。ただしこれは本稿の読みであり、ゲラーがそう述べているわけではない。
六. 限界と留保
最後に、本稿が主張していないことを明示しておく。
第一に、影響関係の主張ではない。ゲラーが中観思想を学んだという証拠はなく、ツォンカパが審美について論じたわけでもない。本稿が示したのは、否定の形式という一点における構造の並行であって、系譜ではない。
第二に、ツォンカパの空性は存在論の主張である。事物が自性を欠いているという言明は、世界の在りかたについての主張であり、美についての主張ではない。本稿はその論理構造を分析の枠組みとして借用したにすぎない。借用が正当化されるのは、それによって臨床の記述が精確になる限りにおいてである。
第三に、審美修復における否定は、厳密な意味での無遮ではない。無遮において確定されるのは、否定対象の否定という事実のみである。修復においては、修復物という物体が残る。ここで否定されているのは修復物の存在ではなく、修復物が独立した鑑賞の対象として立つこと、すなわちその自性である。この違いは小さくない。中観の術語を美学に転用する際、この差を曖昧にすれば、議論は比喩の水準に落ちる。
第四に、否定を徹底することが常に正しいわけではない。第三章で述べたように、過剰な否定は断見に相当する。審美そのものを放棄し、機能さえ果たせばよいとする態度は、無遮の徹底ではなく、所遮の画定の失敗である。
これらの留保の上で、本稿が提示したいのは一つの問いである。自らの修復において、何を否定し、その後ろに何を残しているか。この問いは、材料の選択にも技法の巧拙にも還元されない。
注
- (1)Adar P. Inside the Mind of Willi Geller, MDT. J Cosmet Dent. 2010 Summer;26(2):20-24.
- (2)ツォンカパによる二種の否定の規定は『善説心髄』(Legs bshad snying po、略号 LN)による。定立的否定は否定対象を直接排除して他の法(chos gzhan)を含意するもの、純粋否定は他の法を含意しないものとされる(LN.pha.113b6–114a3)。ツォンカパは「含意する」(’phen pa)を「証明する」(sgrub pa)と同義に解しており(LN.pha.114a4)、したがって純粋否定とは、否定対象の否定以外のものを証明しない否定であって、否定対象の否定そのものは証明される。以上は四津谷孝道[1998]の分析による。葉数および版の帰属も同論文に従う(LN = The Collected Works of Rje Tsong kha pa Blo bzang grags pa, vol. 21, Delhi, 1973)。なお prasajya-pratiṣedha の訳語について、同論文注3は、ツォンカパに関する限り「非定立否定」「絶対否定」を適切でないとし、「純粋否定」を暫定的に採る。本稿もこれに従う。英語の non-implicative negation は「他の法を含意しない」という規定と一致するため、そのまま用いる。
- (3)LN.pha.115b3–4。四津谷[1998]。
- (4)LN.pha.115b4–116a1。排除(rnam par bcad pa, vyavaccheda)と不在の確定(yongs su gcod pa, pariccheda)の関係については、四津谷[1998]。
- (5)Tsong-kha-pa. The Great Treatise on the Stages of the Path to Enlightenment, Volume Three. Lamrim Chenmo Translation Committee tr. Snow Lion Publications, 2002.
- (6)同上。先行研究として、四津谷孝道『ツォンカパの中観思想 ことばによることばの否定』大蔵出版、二〇〇六年。
- (7)Adar P. Inside the Mind of Willi Geller, MDT — Part 2. J Cosmet Dent. 2010 Fall;26(3):12-19.
文献
- Adar P. Inside the Mind of Willi Geller, MDT. J Cosmet Dent. 2010 Summer;26(2):20-24.
- Adar P. Inside the Mind of Willi Geller, MDT — Part 2. J Cosmet Dent. 2010 Fall;26(3):12-19.
- Tsong-kha-pa. The Great Treatise on the Stages of the Path to Enlightenment, Volume Three. Translated by the Lamrim Chenmo Translation Committee. Joshua W. C. Cutler (Editor-in-Chief), Guy Newland (Editor). Snow Lion Publications, 2002.
- Legs bshad snying po (Drang ba dang nges pa’i don rnam par phye ba’i bstan bcos legs bshad snying po). The Collected Works of Rje Tsong kha pa Blo bzang grags pa, vol. 21, Delhi, 1973.
- 四津谷孝道「Tsong kha pa における無自性論証と純粋否定」『仏教文化研究論集』第二号、一九九八年、五八〜八二頁
- 四津谷孝道『ツォンカパの中観思想 ことばによることばの否定』大蔵出版、2006.



