
Written by 田中良一 表参道歯科アールズクリニック院長
この記事は、患者が望む口元と、審美修復の治療目標との関係を考察した臨床論考です。前歯のセラミック修復を念頭に、患者の希望をどこまで治療に反映し、何をもって完成と考えるのかを、『否定の形式としての審美修復』と『再認識としての審美修復』を踏まえて検討します。インド哲学やカシミール・シヴァ派そのものを論じることが目的ではありません。
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抄録
『否定の形式としての審美修復』(以下、『否定の形式』)では、人工物としての違和感がないことを、特定の代替規格への適合に置き換えずに確かめるという、審美修復の一側面を論じた。『再認識としての審美修復』(以下、『再認識』)では、その違和感の不在と、本人が治療後の口元を自分のものとして認める経験とを区別した。本稿では、患者が望みを語り、その望みを具体的な形へ移していく過程を主題とする。中心となる問いは、患者の希望に従うことが、否定の意味に別の肯定的な内容を持ち込むことになるのか、ということである。この問いを考えるため、否定が何を意味するかという問題と、実際の臨床で形を提案し、その結果を評価する手続きとを分ける。患者の希望から具体的な形を提案しても、それだけで、その形を否定が含意することにはならない。希望そのものを仮説とするわけでもない。希望は治療の方向を定めるものであり、検討すべき仮説となるのは、その希望を受けて作り手が提案した形と、その形によって本人の望む状態を実現できるという見通しである。希望がどこから生じたのかを分類しても、その形が本人の口元として受け止められるかどうかは、それだけでは決まらない。形態上の条件に合っていることから、人工物としての違和感がないことや、本人による再認識まで導くこともできない。本稿では、カシミール・シヴァ派における本性の喪失や意欲の議論も参照する。患者の希望そのものを、同派の存在論によって説明するためではない。希望を聴き、その意味を解釈し、具体的な形として提案し、その結果を本人と確かめる。この臨床の過程を、前二稿で示した区別と接続することが本稿の目的である。
一.『否定の形式』『再認識』から希望へ
『否定の形式』が論じたのは、人工物としての違和感を否定することと、特定の色や形を肯定することとの区別であった。『再認識』が論じたのは、人工物としての違和感がないことと、本人が治療後の口元を自分のものとして受け止めることとの区別であった(1)。
前二稿にも、本人の希望を参照しながら形を提案することへの言及はある。しかし、そこで中心となっていたのは、違和感がないという判断と、本人による認め直しであった。
本稿では、患者を「望みを語る主体」として捉え、その望みが修復治療の中でどのような役割を持つのかを考える。
臨床の患者は、何らかの望みを持って来院する。前より白くしたい。過去に治療した歯をやり直したい。笑ったときに歯が気にならないようにしたい。希望は、具体的な色や形として語られることもあれば、日常生活の中で得たい状態として語られることもある。
審美修復では、咬合の安定や歯周組織の健康をはじめ、治療として成立するための条件を確かめたうえで、患者がどのような口元を望んでいるのかを治療の方向に反映する必要がある。歯質や歯髄を含む生物学的な条件、機能上の条件、治療の適応を検討したうえで、美的な方向を作り手の好みだけで決めないということである。
患者の希望を治療の方向に反映すれば、その希望に応えるために、具体的な色や形を肯定的に選ぶことになる。
では、その選択は、『否定の形式』で述べた「否定の後ろに代替規格を置かない」という立場と衝突するのだろうか。
この問いに答えるには、患者が何を望んでいるのか、その希望に対して作り手がどのような形を提案するのか、そして完成を何によって確かめるのかを分けて考える必要がある。
希望があること、具体的な形が決まること、その形によって治療目標が達成されたと判断することは、それぞれ別の事柄である。
二.本性からの離脱
カシミール・シヴァ派のプラティヤビジュニャー派は、個として限定されたあり方を、認識と行為の自在性に関わる問題として論じている。
ウトパラデーヴァの『イーシュヴァラ・プラティヤビジュニャー・カーリカー』(以下、IPK)3.2.4では、アーナヴァ・マラ(āṇavamala)が二つの側面から規定される(2)。
知における自在性の喪失と、自在性における知の欠如。その二つが、自らの本性の喪失によるアーナヴァ・マラである。
偈にあるsvasvarūpāpahāniを、本稿では「自らの本性の喪失」と読む。ウトパラデーヴァ自身の註であるVṛttiでは、この状態が「完全性の欠如(pūrṇatvābhāva)」と「限定性(parimitatva)」によって説明されている。
この二語は偈そのものに含まれる語ではない。しかし、偈の意味を説明する自註の言葉である以上、偈の解釈から切り離して扱うこともできない。
同派の議論を参照して、「欠乏ではなく離脱である」と二つを排他的に分けるのは適切ではない。完全性の欠如や限定性も、自らの本性からの隔たりを説明する議論の中に位置づけられている。
IPKの冒頭では、主体そのものはすでに成立しているとされる。そのため、ここでいう「喪失」を、主体そのものが存在しなくなったという意味に取ることも適切ではない(2)。
この議論から臨床へ参照できるのは、現在のあり方と、「自分のあり方」として本人が受け止められるものとの間に隔たりがあるかを問う、という限られた点である。
『再認識』では、その隔たりを、現在の口元と、本人が自分の顔について抱いている理解との関係として記述した。本稿は、この限られた構造において、同派との類比を読む。
ただし、この類比によって患者の希望一般を説明するわけではない。
失われた形を補いたいという希望と、自分の口元としてなじむようにしたいという希望は、異なる観点から語られ、同時に存在することもある。これまでになかった白さや形を求める希望もある。審美修復が扱う希望を、すべて「自己との隔たり」だけで説明することはできない。
本人が「この口元になじめない」と述べたことだけで、技術的・機能的な不備がないと分かるわけでも、本人が何らかの本性を失っていると分かるわけでもない。
この類比が与えるのは、本人の訴えをどのように聴くかという問いであって、その原因の診断や、治療すべき具体的な形ではない。
ここでいう「自分のあり方」は、作り手が発見し、患者に教える唯一の「本当の顔」でもない。その人が何を望み、どのように変わりたいのかも含めて、本人とのやり取りの中で理解していくものである。
三.分類と帰属
患者の希望を、二つに分けて考えたくなることがある。
一つは、誰かの口元に近づきたいという希望であり、もう一つは、本来こうであったはずの自分へ戻りたいという希望である。前者は他者の規格へ向かい、後者は本人の顔へ向かっているように見える。
この区別が示すのは、希望がどこから生じ、どのように語られたかという違いである。その希望に応えた結果が、本人の口元として受け止められるかどうかまで直接に分ける分類ではない。
他人の写真を参考にして作った形が、本人にとって自分の口元として感じられることはありうる。反対に、過去の自分の写真に近づけて作った形でも、現在の本人にはしっくりこないことがあるかもしれない。
他人を参考にした希望を「借り物」、過去の自分を参考にした希望を「本人への回復」と、出発点だけから判断することはできない。
臨床では、憧れている外観、過去の自分への思い、現在気になっていることが、一つの希望の中に重なっている場合がある。
複数の要素が混在していることから、希望を原理的に分類できないという結論は出ない。分類できるかどうかと、その分類によって何が分かるのかは、別の問題である。
本稿で必要なのは、次の命題である。
希望の出所や内容を分類できたとしても、その分類だけでは、どの形が本人の口元として受け止められるかを確定することはできない。
これは、希望を分類することや、患者との対話に意味がないということではない。何を残したいのか、何を変えたいのかを理解することは、提案の方向を定め、患者と作り手の行き違いを減らすために必要である。
患者の希望についての理解が深まったことと、実際に作られた口元を本人が自分のものとして認め直したことは、分けて考える必要がある。
本稿では、『再認識』に従い、その口元が本人に自分のものとして受け止められることを「帰属」と呼ぶ。
希望の由来や内容を調べることは、その帰属が成立するかを考える手がかりにはなる。しかし、それ自体が帰属の成立を判定するものではない。
四.二つの階層
本稿の問いは、二つの異なる階層にまたがっている。
第一は、否定の意味内容についての問題である。
周遮と無遮は、ある否定が、否定対象の不在に加えて他の法まで含意するかどうかによって区別される。『否定の形式』で問うたのは、「人工物としての違和感がない」という判断の中に、特定の代替規格への適合まで含めていないかということであった。
第二は、臨床における提案と評価の問題である。
患者の希望に応えるために、作り手がどのような形を提案するのか。その形によって何が実現したのかを、どのように確認するのか。ここでは、希望の理解、修復物の製作、本人による確認、治療全体の成立が問題になる。
たとえば、患者が以前より白い歯を希望し、作り手がその希望に応える色を提案したとする。
この選択が肯定的な内容を持つことは明らかである。しかし、白い色を積極的に選んだという事実だけで、「人工物としての違和感がない」という否定が、その色を含意することにはならない。
色を選んだ理由と、違和感の不在を確かめる判断が何を意味するかは、別だからである。
反対に、「人工物らしくない」という言葉によって、違和感がないことだけでなく、あらかじめ決めた色や形に適合していることまで肯定しているなら、その文脈での否定は、他の法を含意する周遮に対応する。そこでは、違和感の不在だけからは得られない肯定的な内容が、否定の意味に含められている。
「希望どおりの色になった」と肯定的に述べているだけなら、その判断自体を周遮や無遮に分類する必要はない。
「希望どおりに作れた」ということを完成の根拠にしているからといって、それだけで、「違和感がない」という言葉を周遮として用いていると断定することもできない。完成と判断する根拠が不十分である可能性と、否定の表現がどのような意味を持っているかという問題は、別々に検討される。
実際の臨床でどのように治療を進めているかは、作り手がどの意味で言葉を使っているのかを考える手がかりにはなる。しかし、その運用だけから否定の意味を一義的に決めることはできない。
なぜ完成と判断したのか、その判断の中で「違和感がない」という評価がどのように位置づけられているのかを確かめる必要がある。
この区別に従えば、患者の希望から具体的な形を提案すること自体は、「無遮としての審美」と矛盾しない。
希望に応えるために肯定的な形を選ぶことと、その形が人工物として口元から浮き立っていないことを確認することは、同時に行うことができる。
ただし、希望どおりの形になったという事実から、人工物としての違和感もないと推論することはできない。
本人が望んだ形であっても、その口元では人工物として浮き立って見えると判断される場合には、誰に、どのような関係でそう見えるのかを確認し、その評価と本人の希望との関係を検討する必要がある。
どの治療目標を優先するのかを選ぶことと、複数の治療目標がすべて達成されたと判断することは同じではない。
ここから、本稿の中心命題を定める。
希望は、治療の方向を定める。希望に応えて提案された形は、検討すべき仮説となる。しかし、その形態上の条件が満たされたことだけでは、人工物としての違和感がないこと、本人による再認識、治療全体の成立までは確定しない。
五.誰が形を措定するか
患者の希望は、言葉だけで伝えられるわけではない。
写真や図を示すこともあれば、気になる部分を指し示したり、希望する色や長さを具体的に指定したりすることもある。そのため、患者は何も形を定めず、作り手だけがすべてを決める、と考えるのは正確ではない。
それでも、その希望を、実際の患者の歯や口元に適用できる修復物へ移すには、専門的・技術的な解釈が必要になる。
輪郭や厚み、色の層、周囲の歯や口元との関係を具体的な形にするのは、歯科医師と歯科技工士の判断と技術である。患者から写真を示された場合にも、その写真のどの特徴を、どの程度、どのような条件で患者の口元へ移すのかを判断しなければならない。
「患者の希望を優先する」と述べても、作り手の解釈がなくなるわけではない。必要なのは、作り手の解釈が介在していることを認め、その解釈が妥当であるかを、本人とのやり取りの中で確かめることである。
希望そのものを「仮説」と呼ぶと、重要な区別が曖昧になる。
「このように見えたい」という患者本人の希望は、まず治療の目的として理解すべきものである。
仮説となるのは、「この形にすれば、本人が望む状態に応えられる」という作り手の提案である。患者の言葉を理解する過程にも作り手の解釈は含まれるが、その解釈と患者本人の希望を同一視することはできない。
たとえば、患者が「前より白くしたい」と希望し、その言葉から作り手が特定の色を選んだとする。
その色を実際に作れたのであれば、作り手が提案した形態上の条件は満たされたことになる。そこまでで分かるのは、提案した色が実現したということであり、その白さが患者の望んでいた「見え方」そのものだったかどうかは、本人との確認を要する。
患者の希望と実際の見え方にずれがあった場合、本人の希望が間違っていたと判断する前に、「白くしたい」という言葉から具体的な色へ移した作り手の解釈を問い直す必要がある。
作り手が顔立ちから読み取って提案した形も、患者が述べた希望から提案した形も、作り手の解釈を介しているという点では共通する。
前二稿が問題にしたのは、作り手が解釈することそのものではない。その解釈を、本人に確かめる必要のない完成基準として固定することであった。
患者の希望に応えて作った提案を、「仮説だから」と作り手がいつでも撤回できる暫定的なものとして扱ってよいわけでもない。
患者と共有した希望は、形を提案する根拠となり、その希望に照らして結果を評価する基準にもなる。
仮説とするのは、患者の希望に応える責任ではない。その希望を、どのような形によって実現できるかという見通しである。
その見通しについて検討できるのは、修復物を完成させたあとだけではない。本人の言葉をもう一度確認し、写真や模型を使って違いを共有し、適切な段階で試適や仮歯を使うことで、完成前から理解を深めることができる。
対話によって得られるものが言葉であるからといって、形についての理解が深まらないということではない。
模型上の形や試適時の印象だけでは、その後の日常生活の中で本人がどう感じるかまで、すべて予測できるわけではない。判断に用いる資料や確認の段階には、それぞれ確かめられる範囲がある。
『再認識』で述べた「待つ」とは、完成した修復物を装着するまで確認を遅らせることではない。できる確認を重ねたうえでも、患者本人の経験を、作り手による予測だけで代替しないという意味である。
提案を仮説と呼ぶからといって、実際に歯へ行う処置まで、自由に取り消せる試行として扱うこともできない。検討の段階で提案が暫定的であることと、実際の処置が歯に与える影響は、分けて考えなければならない。
六.希望の実現と再認識
希望が実現したことと再認識との関係は、患者が何を希望していたかによって異なる。
白さや歯の長さなど、具体的な形態条件が希望として共有されている場合には、その条件が実現したかどうかを作り手も評価できる。
その形が本人の望んでいた見え方になっているか、さらに、その口元を本人が自分のものとして受け止められるかは、別に確認する必要がある。
最初から「自分の口元として感じられるようにしたい」という希望が含まれている場合もある。
その希望が実現したと判断するには、再認識が成立したかどうかも確認しなければならない。この場合には、希望の実現と再認識を、必ず二つの別々の出来事として数える必要はない。
「昔の自分に戻したい」「違和感のない顔にしたい」という患者の言葉を、そのまま再認識への希望だと決めつけることもできない。
過去の特定の色や形へ戻したいのか。外観上の不調和をなくしたいのか。自分の口元として感じられるようになりたいのか。同じ言葉にも複数の意味がありうるため、本人が何を望んでいるのかを確認する必要がある。
ここには、同じ言葉によって異なる評価を代用してしまう危険がある。
作り手は、あらかじめ共有した形態条件が満たされたことをもって「希望が叶った」と述べている。しかし患者は、その言葉の中に、「自分の口元として感じられること」まで含めている。
この場合、患者と作り手は、同じ言葉を使いながら、同じことを確認しているわけではない。
本稿の命題は、「希望が実現しても、再認識は決して成立しない」ということではない。
希望そのものに再認識が含まれていたのであれば、その希望の実現には、再認識の成立も含まれる。
問題になるのは、希望から取り出した形態上の条件だけを満たしたことによって、希望全体が実現し、さらに再認識まで成立したと判断してしまうことである。
再認識を、その患者として経験するのは本人である。作り手も、本人の言葉や治療後の経過を通じて、その成立を理解することはできる。
作り手が形態を評価したことを根拠として、本人に代わって再認識を成立させることはできない。この区別は、希望の実現と再認識が一つの経験として重なっている場合にも変わらない。
再認識が成立したからといって、それだけで生物学的・機能的・技術的な治療の成立まで保証されるわけではない。
「希望が叶った」という一つの表現だけで評価を終わらせず、何が達成され、何については引き続き確認が必要なのかを分けて考える必要がある。
七.希望と欲望の区別
本稿では、「希望」という言葉を、患者が自分の口元について望んでいる変化や状態という、臨床上の意味で用いている。
この希望を、そのまま哲学上の渇愛や、宇宙を現す意欲と同一視することはできない。
シャーンティデーヴァの『入菩薩行論』では、渇愛(tṛṣṇā)は煩悩として批判される一方で、実践を支える意欲(chanda)を育てることが説かれている(3)。
中観の議論を参照したからといって、「望むことそのものを退ける」という立場が導かれるわけではない。何が望まれているのか、その意欲がどのような働きを持っているのかが区別されている。
シヴァ派でも、意欲(icchā)は単に取り除くべきものとして扱われてはいない。
IPK 1.5.7では、意識である主宰者が、意欲に従って対象を現すと述べられる。また、1.5.10の自註では、創造する働きを持つ反省的把握が、意欲の形として説明されている(4)。
ここで論じられているのは、プラティヤビジュニャー派における意識と世界の顕現の構造である。臨床で患者が「歯を白くしたい」と望むことを、そのままこのicchāと同一視することはできない。
同派が限定された主体について論じる場面では、執着(rāga)も問題となる(5)。
同派に意欲を肯定的に論じる箇所があるからといって、あらゆる欲望が無条件に肯定されることにはならない。意欲、限定、執着は、同派の体系の中でも区別されている。
「中観は有ると思うことを問題にし、シヴァ派は無いと思うことを問題にする」という単純な反転だけで、欲望についての両者の立場を説明することもできない。それぞれの思想が何を認め、何を否定し、意欲にどのような働きを認めているのかは、そのような対称形には収まらない。
臨床においても、「白くしたい」という希望を、それだけで執着と呼ぶことはできない。「自分らしくしたい」という希望だからといって、それだけで適切な治療目標が決まるわけでもない。
患者の希望に哲学的な価値の序列を当てはめる前に、本人が何を望んでいるのか、その希望を実現するために何が必要で、どのような影響が生じるのかを検討する必要がある。
患者の希望を治療の方向に反映する根拠は、本人が自分の口元をどのようにしたいと望んでいるのかを、治療目標を定める過程に含めるという臨床上の立場にある。
シヴァ派が意欲を肯定的に論じているから、その立場が正しいと証明されるわけではない。また、本人が「本来の完全さ」を思い出せば、治療上の問題まで解消されると考えるものでもない。
八.二つの鏡
アビナヴァグプタの『イーシュヴァラ・プラティヤビジュニャー・ヴィマルシニー』1.6.3には、「鏡の中の都市」(darpaṇanagaranyāya)という比喩が現れる。
これは、さまざまな対象が、認識主体の内にありながら現れていることを説明する文脈で用いられている(6)。
臨床で患者が見る鏡は、実際の口元を映す物である。哲学上の比喩として用いられる鏡と、診療室で患者が見る鏡では、議論の中で果たしている役割が異なる。
同じ「鏡」という言葉が使われているからといって、二つの議論がただちに論理的に混同されるわけではない。しかし、実際の鏡に患者の口元が映ることを根拠として、患者が絶対的意識であるとか、そこに本来の完全な自己が現れていると論じることはできない。
比喩に同じ物が使われていることは、存在論まで同じであることを意味しない。
『再認識』と本稿における鏡は、本人が自分の口元を確かめる場の一例である。
再認識は、鏡の前で一度に成立しなければならないわけではない。鏡がなければ成立しないわけでもない。
話したり、笑ったり、人と過ごしたりする日常の中で、その口元を本人がどのように感じるかも、本稿が扱う問いの範囲に含まれる。
シヴァ派が絶対的主体を認めていることから、作り手に患者の「本当の顔」を決定する権限が与えられるわけではない。その存在論を採用しなければ、作り手が自分の解釈を患者に押しつけることがなくなるわけでもない。
問題になるのは、どの哲学を採るかではなく、作り手自身の解釈と、患者本人の希望や経験を区別しているかどうかである。
本稿が絶対的主体の存在論を採らないのも、審美修復の目標を、その存在論によって証明しようとしていないためである。
希望を語る人、具体的な形を作る人、そしてその口元とともに生活する人との関係は、臨床の中で確認される事実と判断として扱う。
九.限界と留保
第一に、本稿は思想上の影響関係を主張しない。
前二稿と同じように、哲学原典に書かれていることと、本稿が臨床へ転用したことを分ける。シヴァ派における「本性の喪失」によって、患者の希望が生じる原因を説明するものではない。
第二に、患者の希望を治療の方向に反映することは、本稿が採る臨床上の価値判断である。
無遮の論理や再認識という概念から、その価値判断が必然的に導かれるわけではない。これらの概念を用いる目的は、患者の希望を治療に反映する際に、何と何を混同してはならないのかを明確にすることである。
第三に、希望の中に複数の要素が混在していることや、患者の言葉を具体的な形へ移す際に解釈が必要であることについて述べたが、これは患者心理一般を説明する理論ではない。
本稿は、希望の類型ごとの頻度や、再認識がどの程度生じるのか、どの提案方法がどの程度有効なのかを実証した研究でもない。扱っているのは、概念上の区別と、臨床上の判断との関係である。
第四に、本人の経験を尊重することと、治療全体の成否を本人の経験だけで決めることは異なる。
また、本人による再認識がまだ成立していないからといって、それだけで追加の処置が必要だと決まるわけでもない。
本人の希望と治療結果との間にどのような隔たりがあるのかを理解することと、その隔たりに対して何を行うかを判断することは、分けて扱う必要がある。
第五に、原典の照合範囲について記しておく。
PKとウトパラデーヴァのVṛtti、アビナヴァグプタのVimarśinī、『入菩薩行論』については、文献欄に示すGRETIL電子本文を参照した。
偈そのものの記述と、自註による説明を区別し、VṛttiとVimarśinīを混同しない。電子本文を確認したことは、その底本や写本を独立して校合したことを意味しない。
最後に、副題の「否定の前」について確認しておく。
この言葉は、患者の希望が治療の出発点になるという意味である。最初に希望を一度聞き、そのあと否定を行い、最後に再認識を待つという、一方向の治療工程を定めたものではない。
実際には、形を確かめていく過程で、患者自身にも希望の意味がより明確になることがある。その希望に照らして、作り手が提案した形を見直すこともある。
三つの論考が扱っているのは、一つの臨床を時間順に三段階へ分けたものではない。同じ審美修復の中にある、異なる三つの問いである。
十.結び
患者の希望に応えて具体的な形を提案することは、それだけで、その形を否定が含意することにはならない。
希望に応えるための肯定的な形の選択と、その修復物に人工物としての違和感がないことを確かめる判断は、両立する。
患者の希望は、治療の方向を定める。作り手はその希望を解釈し、生物学的・機能的・技術的な条件のもとで、具体的な形を提案する。
そこで検討すべき仮説となるのは、その形によって、本人の望む状態に応えられるという見通しである。
患者と共有した形態条件が満たされたことは、希望への応答を評価する一つの根拠になる。それだけで、人工物としての違和感がないこと、本人による再認識、治療全体の成立まで代用することはできない。患者が何を希望しているのかを具体的にしながら、それぞれの評価を分けて確かめる必要がある。
『否定の形式』では、何を否定し、その否定の中に何を含めているのかを問うた。
『再認識』では、治療後の口元を自分のものとして認める経験が、誰の側にあるのかを問うた。
本稿が問うのは、その人が治療の入口で何を望み、作り手がその望みにどのように応えたのか、ということである。
希望を入口とするとは、患者の希望を聞いたところで終わることではない。また、希望どおりに作ったと、作り手が宣言したところで終わることでもない。
患者が望んでいることを理解し、その望みを具体的な形へ移し、その形によって何が実現したのかを、本人とともに確かめていくことである。
注
- 『否定の形式』第二章・第四章・第五章、および『再認識』第四章から第七章。否定の形式は、否定した後に何を製作したかではなく、その否定が、文脈を含めて何を含意するかによって区別される。本稿の「仮説」は、臨床上の提案の位置付けを述べるものであり、無遮・周遮の術語上の定義ではない。ツォンカパの否定論については、四津谷孝道「Tsong kha paにおける無自性論証と純粋否定」(1998)および『否定の形式』の注を参照。
- Utpaladeva, IPK 3.2.4 および Vṛtti。
svātantryahānir bodhasya svātantryasyāpy abodhatā /
dvidhāṇavaṃ malam idaṃ svasvarūpāpahānitaḥ //
「完全性の欠如」と「限定性」は、自註の pūrṇatvābhāvena parimitatvāt による。偈と自註を区別することは、自註の説明を無視してよいという意味ではない。主体が既に成立していながら認められないという構造については、IPK 1.1.2–3 および Vṛtti を参照。「本性の喪失」を臨床上の経験へ対応させることは、本稿による限定的な類比である。 - Śāntideva, Bodhicaryāvatāra 4.28、7.31–32。番号は参照した GRETIL 電子本文による。4.28 は渇愛や憎しみを敵として述べ、7.31 は衆生の利益のための実践を支える力の中に chanda を挙げ、その涵養を説く。本稿はこの区別を、望むこと一般を一律に否定するという要約を避けるために参照する。患者の希望を chanda と同定したり、そのすべてを肯定する根拠にしたりするものではない。
- Utpaladeva, IPK 1.5.7、1.5.10 および Vṛtti。1.5.7 の偈に icchāvaśāt、1.5.10 の偈に icchāmarśaḥ が現れる。nirmātṛtāmayo vimarśa icchārūpo という、創造する働きを持つ反省的把握を意欲の形として説明する表現は、1.5.10 に対する自註のものである。意欲と臨床での希望を同義の術語として扱わない。
- IPK 3.1.9 および Vṛtti。時間等の五つの限定に関する説明の中で、自註は rāga を享受への執着(bhogābhiṣvaṅga)として述べる。IPK 3.2.3 の自註も rāga 等の煩悩に言及する。これらは、IPK 1.5 の自在な意欲の議論と、その対象とする主体のあり方を区別して読む必要がある。
- Abhinavagupta, Īśvarapratyabhijñāvimarśinī 1.6.3。darpaṇanagaranyāyena という表現は、諸対象の現れが認識主体の内にあることを説明する箇所に現れる。GRETIL 電子本文で確認した。同電子本文の底本表示は、K. A. Subramania Iyer・K. C. Pandey 編、初版 1938・1950、1986 再版。電子本文には Bhāskarī 註そのものは収録されていない。本稿は、この比喩を臨床の鏡へ移して、主体の存在論を論証するものではない。
文献
- Utpaladeva. Īśvarapratyabhijñākārikā with Vṛtti. Kaul Shāstrī M, ed. Kashmir Series of Texts and Studies 34. Srinagar, 1921.(GRETIL 電子本の底本。偈番号はこれによる)
- Utpaladeva. The Īśvarapratyabhijñākārikā of Utpaladeva with the Author’s Vṛtti. Torella R, ed. and tr. Serie Orientale Roma LXXI. Rome: IsMEO, 1994.
- Abhinavagupta. Īśvarapratyabhijñāvimarśinī. Iyer KAS, Pandey KC, eds. and tr. Bhāskarī. Princess of Wales Saraswati Bhavana Texts 70, 83, 84.
- Śāntideva. Bodhicaryāvatāra. GRETIL 電子本文、入力 Richard Mahoney。本稿の偈番号は同電子本文による。
執筆者
田中良一
表参道歯科アールズクリニック院長
東京医科歯科大学(現 東京科学大学)卒業、山王病院歯科医長(審美歯科・歯周補綴担当)を経て開業。審美修復をはじめ、歯周病やインプラント分野でも国内外で研鑽を積み、知識と技術を培ってきました。歯や歯ぐきの健康、かみ合わせを確かめながら、修復した歯が顔立ちや表情になじみ、ご本人が自分の口元として感じられることを大切にしています。
執筆者経歴ついてはこちらこの記事は、審美修復によって人工物としての違和感がなくなったあと、何をもって治療の目標が達成されたと考えるのかを扱った臨床論考です。前歯のセラミック修復を念頭に、患者本人が治療後の口元を「これは私だ」と認めるという出来事を、「再認識」という哲学的概念を手がかりに考察します。カシミール・シヴァ派の思想そのものを論じることが目的ではありません。
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抄録
『否定の形式としての審美修復』(以下、『否定の形式』)では、人工物としての違和感がないことを、特定の代替規格への適合に置き換えずに確かめるという、審美修復の一側面を「無遮としての審美」と呼んだ。人工物としての違和感がなくなったからといって、患者本人がその口元を自分のものとして認めるとは限らない。本稿では、この認め直しを「再認識」と呼び、二つの命題を柱とする。第一に、患者本人は否定によって作り出されるのではなく、修復が行われる当の人として、すでに前提されている。第二に、臨床における再認識とは、現在の口元と、本人が自分の顔について抱いている理解とを結び直すことであり、過去の外観をそのまま再現することを必要としない。この出来事を記述する手がかりとして、本稿ではカシミール・シヴァ派のプラティヤビジュニャー(pratyabhijñā、再認識)を参照する。同派では、認識し行為する主体はすでに成立しているが、その本性が認められていないと考える。本稿は、その主体を絶対的な意識とする存在論を採用しない。借りるのは、すでに成立していることと、それを認め直すこととを区別する構造である。再認識を経験するのは患者本人であり、作り手による形態の評価で代えることはできない。再認識が成立したことは、治療全体の成功や満足と同じ意味でもない。本稿では、否定の成立、修復物の帰属、本人の経験、治療目標としての価値判断を分け、『否定の形式』からどこまで議論を引き継ぎ、哲学的概念をどの範囲で借りるのかを明らかにする。
一.『否定の形式』の到達点と、残った問い
『否定の形式』が扱ったのは、「人工物としての違和感がない」という判断が何を意味するかであった。人工物としての違和感がないことを確かめることと、特定の色や形を肯定することは区別される。無遮は否定対象の不在を確定するが、その不在に加えて別の内容まで含意するものではない(1)。
この区別から、二つの境界が明らかになる。第一に、違和感の不在によって患者本人が新たに成立するわけではない。第二に、違和感がないことだけでは、患者本人がその口元を自分のものとして認めることも保証されない。
『否定の形式』で用いた「患者本人が残る」という表現は、否定によって患者本人が生み出されるという意味ではなかった。作り手が設定した規格によって置き換えられるべきではない、治療を受ける当の人を指していた。
患者本人がそこに存在していることと、修復された口元を自分のものとして受け止めることは、なお別の問題である。作り手には自然に見える口元が、本人には借り物のように感じられることがある。人工物らしい不調和を具体的に指摘できないまま、「自分の口元としてはしっくりこない」と感じることもありうる。
ここに、『否定の形式』が扱った「違和感の不在」だけでは記述しきれない問いが残る。
本稿では、審美修復の目標の一つを、本人が治療後の口元を自分の顔の一部として受け止め、その口元とともに日々を送れることに置く。この目標を採るのであれば、修復物を装着できたことや、作り手が形態を評価したことだけで、目標が達成されたとは言えない。
これは治療の終了時期を一律に決める医学的基準ではなく、本稿が採用する臨床上の価値判断である。
ここから生じる問いは二つある。
第一に、患者本人を前提することは、否定のあとに他の法を含意することと、どのように異なるのか。
第二に、その患者本人が、現在の口元を自分のものとして認めるとは、どのような出来事なのか。
第三章では第一の問いを扱い、第四章から第七章では第二の問いを検討する。
第二の問いを考える手がかりとして、本稿はプラティヤビジュニャー派を参照する。同派は、認識される対象だけでなく、記憶し、複数の経験を結び合わせ、それを認め直す主体の働きを主題として論じたからである。
中観にも、記憶や世俗的な自己についての議論はある。本稿が補おうとするのは、中観思想全体に欠けている語彙ではない。『否定の形式』で採用した「否定の形式」の分析だけでは扱いきれなかった、臨床経験を記述するための語彙である。
二.プラティヤビジュニャー派の反転
ウトパラデーヴァ(Utpaladeva、十世紀)とアビナヴァグプタ(Abhinavagupta、十世紀後半から十一世紀初頭)に代表されるプラティヤビジュニャー派は、仏教認識論と論争しながら、その問題設定や論法を自らの体系の中へ組み込んだ。本稿に関係する論点を、四つに分けて確認する。
第一は、記憶と認識の統合である。
ウトパラデーヴァは、過去に経験したことが、現在思い出される経験とどのように結び付くのかを問う。前の認識が次の認識を生じさせると説明するだけで、過去の経験を「私が経験したもの」として捉える働きまで説明できるのか。互いに独立した認識だけでは、それらを比較し、一つの経験のまとまりとして捉えることはできない、というのが彼の反論である。
そこからウトパラデーヴァは、複数の認識を統合する知者を論じる(2)。これはプラティヤビジュニャー派による論証であり、記憶という現象があるという事実だけから、その主体についての存在論まで争いなく確定するわけではない。
第二は、自己認識をめぐる議論である。
仏教認識論には、認識は対象を知ると同時に、それ自身も知られているとする自証(svasaṃvedana)を認める立場がある。チャンドラキールティは『入中論註』において、剣の刃が自らを切ることはできず、指先が自らに触れることもできないという例を用いて、自証を批判する(3)。仏教思想の内部でも立場は一つではない。
ウトパラデーヴァは、認識が自ら輝くことを認めながら、光(prakāśa)だけを取り出して意識を説明することを認めない。反省(vimarśa)を欠く光は、対象の色を映した水晶のように、無感覚なものと変わらないとする(4)。
ここでいう反省は、日常語でいう「あとから自分の行動を振り返ること」だけを意味しない。意識が自らを捉える、より広い働きを指す。
この意識の構成的な働きであるvimarśaと、ある時点で「これがそうだった」と認め直す再認識とは、同じ概念ではない。臨床で再認識が起きていない状態を、患者の意識そのものにvimarśaが欠けている状態へ読み替えてはならない。
第三は、アポハの逆用である。
仏教認識論におけるアポハ(apoha)は、概念の意味を「他のものを排除すること」によって説明する。これに対しウトパラデーヴァは、壺を非壺から区別するためには、壺と非壺の双方が、一つの認識の場に現れていなければならないと論じる。彼が注目するのは、排除そのものだけでなく、比較し、統合し、区別する働きである(5)。
この議論を臨床に参照するときには、複数の条件を比較し統合して診断する必要があることと、絶対的な認識主体が存在することの証明とを区別しなければならない。
第四は、行為者性と自在性である。
バルトリハリの文法学では、行為者は、他の行為要素を働かせ、従属させる自立性によって論じられる。ウトパラデーヴァも、行為と行為要素の統合を認識主体に結び付け、さらに世界を現す意識の自在性(svātantrya)へと議論を進める(6)。
ここで論じられる主体は、世界から離れて観察するだけの存在ではなく、認識と行為の双方を担う主体である。ただし、この宇宙論的な主体の構造を、歯科医師、歯科技工士、患者の役割へそのまま割り振ることはできない。
以上の四点を理解するうえで、『イーシュヴァラ・プラティヤビジュニャー・カーリカー』(以下、IPK)の冒頭は重要である。
第一章第一節第二偈では、知者であり行為者でもある自己が、すでに成立している大自在として述べられる。続く第三偈では、その主体が現れていながら、迷いによって認められていないことが問題とされる(7)。
同派の再認識は、否定のあとに、それまで存在していなかった主体を新たに置くという説明ではない。
絶対的主体を認める思想であるという理由だけで、プラティヤビジュニャー派全体を周遮と分類することもできない。周遮と無遮は、特定の否定が何を含意するかを区別する概念であり、その思想体系がどのような主体を認めるかという存在論上の問題とは、論点が異なるからである。
ツォンカパの無自性論と、プラティヤビジュニャー派が説く絶対的な意識が、そのまま両立するわけではない。両者が直接論争したかのように扱うことも正確ではない。
本稿が行うのは、異なる時代と体系に属する思想を、一つの臨床上の問いに即して比較することである。臨床へ借りるのは、その存在論的対立についての結論ではない。すでに成立しているものがあることと、そのものを認め直すこととは別である、という区別である。
三.否定基体としての患者
第一の問いに戻る。
患者本人を前提することは、否定のあとに別の法を含意することと、どのように異なるのか。
『否定の形式』で参照した湖の例では、「湖の上に煙がない」という表現によって、煙の不在が確定される(8)。このとき、湖は煙の不在から新たに導かれるものではない。煙の有無が問われる場所として、最初から話題の中にある。
この否定も、実際に煙を吹き払う行為を指しているわけではない。「湖に煙がある」という内容を退け、煙がないことを確かめる判断である。
本稿では、このように、否定が「何について」の判断なのかを定める基体を「否定基体」と呼ぶ。患者をこの基体に対応させるのも、否定された内容と、その否定が何について行われた判断なのかを分けるためである(9)。
「この患者の口元には、人工物としての違和感がない」と判断するとき、患者とその口元は、すでに判断の対象として前提されている。人工物としての違和感がないことから、患者の存在や特定の顔立ちが証明されるわけではない。
患者について言及すること自体は、否定の意味内容に別の肯定的な規格を加えることにはならない。
問題になるのは、患者が治療より時間的に先に存在していたというだけの話ではない。当の判断の中で、何が前提され、何が否定されているのかという構造上の区別である。
「この人らしい顔は、この形である」という作り手の解釈まで、人工物としての違和感がないという判断から導かれるわけではない。
患者の顔と患者本人も同義ではない。顔や口元は、修復物との関係を検討する身体の一部である。患者本人は、その顔を持ち、治療を受け、生活し、治療による変化を経験する人である。
「患者本人が残る」という表現は、歯や顔の背後に不変の実体としての本人が存在するという主張ではない。顔の形を変えてはならないという主張でもない。
この区別を置けば、無遮が他の法を含意しないことと、臨床が患者を前提していることとの間に矛盾は生じない。
否定の論理から、歯や歯周組織をどのように保全すべきかという臨床上の義務まで導くことはできない。その根拠は、生物学的・機能的に治療を成立させるための条件の側にある。
第一の問いに答えるために、絶対的主体についての存在論を持ち込む必要はない。必要なのは、前提されている人と、否定によって確定される内容を区別することである
次に問うべきなのは、その人が、修復された現在の口元をどのように自分のものとして認めるのかということである。
四.再認識という出来事
再認識とは、すでに知られているものと、いま目の前に現れているものとを結び付け、同じものとして認め直すことである。
本稿では、この構造を参照して、修復された口元を本人が自分の顔の一部として受け止めることを、臨床における「再認識」と呼ぶ。
鏡に映っている人物が自分であると識別できるだけでは、本稿のいう再認識が成立したことにはならない。仕上がりに納得できていない患者も、鏡に映っている顔が他人ではなく自分の顔であることは知っている。
本稿が問うのは、その識別の先にある経験である。現在の口元を、自分の表情や、自分の日々の生活につながっているものとして感じられるか。「これは私だ」という言葉は、その結び付きを表している。
治療結果をやむを得ず受け入れたことや、装着することに同意したことだけでも、この結び付きが成立したとは言えない。
ここでいう再認識は、治療結果を承認するという行為そのものではない。治療による変化を含んだ現在の口元の中に、自分の表情や生活とのつながりを見いだす経験を指す。
このとき結び付けられるのは、現在目の前にある口元と、本人が「自分の顔」について抱いている理解である。
後者は、過去の一枚の写真に写った顔と同じものではない。これまでの外観、表情、他者との関係、これからどのように変わりたいかという希望なども含み、治療の過程で変化する可能性がある。
再認識とは、本人の内側にあらかじめ固定された一枚の画像と、修復物とを寸分違わず一致させる作業ではない。
人工物としての違和感の不在と、再認識を改めて区別する必要がある。
作り手に不調和が見えないからといって、本人にも不調和が感じられないとは限らない。また、本人にも人工物らしい不調和が感じられないからといって、その口元を自分のものとして受け止めているとは限らない。
外観上の不調和と、「自分の口元として感じられない」という経験は、どちらも日常語では「違和感」と表現されることがあるが、実際に確かめるべき内容は異なる。
技術的には改善の余地がある修復物を、本人が長く自分の口元として受け止めている場合も考えられる。
違和感の不在と再認識を、互いの十分条件とすることはできない。違和感の不在は再認識を支える条件にはなりうるが、再認識そのものを含意するわけではない。
副題にいう「否定の後」は、この論理的な区別を表している。実際の患者の経験が、必ず「まず違和感が消え、そのあと再認識が起こる」という二段階の時間順序を取るという意味ではない。
試適の段階ですでに口元を自分のものとして感じることもありうる。不調和の解消と認め直しが一つの経験として生じることも、日々の生活の中で少しずつなじんでいくことも考えられる。本稿は、その頻度や時間的な経過を実証した臨床研究ではない。
シヴァ派の議論にも、何かが否定されることと、主体が自らの本性を認めることとは同じではない、という区別がある。
同派が論じる「空を本性とする認識者」を、修復後の口元を自分のものとして感じられない患者に直接対応させることはできない。
IPK第三章の該当箇所には、「私」性や行為者性についての言及があり、そこで扱われる認識者を、「私」という働きやvimarśaを全面的に失った存在としてまとめることは適切ではない。熟睡や世界の消滅との比較も、同派の認識者論と解脱論の中で行われている(10)。
本稿に必要なのは、その段階論を臨床へ移植することではない。
人工物としての違和感がなくても再認識が成立していないのであれば、二つの評価が分かれている、と記述すればよい。その状態を、中観における断見や、シヴァ派における束縛と判定する根拠はない。
作り手には、この違いを聴き分けることが求められる。
患者が訴えているのは、色や輪郭の不調和なのか。それとも、形態の説明だけでは捉えきれない、自分の顔との隔たりなのか。
診断では、複数の条件を比較し、それらを統合して考える必要がある。しかし、作り手が情報を統合することと、患者本人が口元を自分のものとして認め直すことは、同じ働きではない。
五.技術的な行為者と修復物の帰属
修復物は、作り手の手によって製作される。歯を形成し、陶材を築盛する技術的な行為者は、歯科医師と歯科技工士である。
「誰が作ったのか」という問いと、「その修復物が誰の口元として受け止められるのか」という問いは分けて考えなければならない。
ウィリー・ゲラーは、自分が製作した修復物を「典型的なウィリーのクラウン」と評されたことを好ましく思わず、自分の様式だと分かるものではなく、自然に見えるものを作りたいと述べている(11)。
この述懐からは、作り手の特徴が、修復の目標そのものに置き換わってしまうことへの警戒を読むことができる。
ゲラーの様式が認識されたという事実だけで、その修復物が患者の顔と調和していなかったことや、本人の再認識を妨げていたことまでは分からない。作り手の様式が現れているかという評価と、その修復物が患者の口元として成立しているかという評価は、別に確かめる必要がある。
本稿で「修復物の帰属先を患者へ戻す」と述べるときには、三つの事柄を区別する必要がある。
誰が技術的に製作したのか。誰のために、どのような条件に即して製作したのか。そして、完成した修復物を本人がどのように受け止めたのか。
この三つは関係しているが、どれか一つが成立すれば、ほかの二つも自動的に成立するわけではない。
顔立ち、唇の動き、隣接する天然歯、咬合の様式、本人の希望に即して製作することは、その修復物を患者の口元として成立させる方向を定める。
それらの条件から一つの完成形が必然的に導かれるわけではなく、作り手の意図だけで、患者への帰属が成立するわけでもない。
作り手は形を提案し、その形を口元との関係の中で確かめ、最後には本人がその口元をどう受け止めるかを確認する。
この過程でも、作り手の技術が不要になるわけではない。むしろ、観察した条件を具体的な色、輪郭、表面性状へ移すためには、高度な技術が必要になる。
本稿が目標とするのは、その技術の成果が作り手の存在を前面に出すことなく、その人の口元として現れることである。多くの手をかけたことと、作り手の手の痕が強く見えることは比例する必要がない。
患者が技術的な製作者ではないからといって、受動的な基体にすぎないわけでもない。
希望を述べ、提案を受け止め、選択し、治療結果とともに生活する主体は患者本人である。技術的な行為者と、治療を経験する主体を区別することで、かえって両者がどのように治療へ関わっているのかが明確になる。
六.再認識の主体は、患者である
「これは私だ」という再認識を、その患者として経験するのは本人である。
作り手は、修復物と顔立ちの関係を評価し、形態や機能が成立しているかを説明することができる。しかし本人に代わって、その口元を自分のものとして受け止めることはできない。
ここから導かれるのは、経験を他者が代わることはできない、ということである。
患者が「自分の口元として感じられない」と述べているとき、作り手が「形はあなたに合っている」と判断していても、それによって患者の再認識が成立したことにはならない。作り手の評価が適切である可能性と、本人がまだそのように感じていないことは、同時に成り立ちうる。
再認識について最終的に判定する主体を本人に置くとは、この意味である。
もちろん、本人の経験が他者にはまったく分からないという意味ではない。本人の言葉を聴き、治療後の経過を共有することで、作り手も再認識が成立しているかを知り、理解することができる。
また、本人が自分の経験をいつでも明瞭で一貫した言葉にできるという前提でもない。作り手がその言葉を解釈する必要がある場合もある。それでも、その解釈を、本人が実際に経験していることの代わりにすることはできない。
治療の評価を、ここでは便宜上、生物学的成立、機能的成立、技術的成立、再認識の成立に分ける。
前の三つも患者本人の訴えを無視して評価できるものではなく、四つの評価が完全に独立しているわけでもない。
再認識が成立しているからといって、生物学的・機能的・技術的にも治療が成立していると推論することはできない。反対に、生物学的・機能的・技術的に問題がないからといって、再認識も成立していると推定し、そこで評価を終えることもできない。
本稿が、本人が治療後の口元を自分のものとして受け止められることを治療目標の一つに置くのは、この区別を踏まえた臨床上の選択である。
本人にしか経験できないという事実だけから、それをすべての治療目的より優先すべきだという結論が導かれるわけではない。再認識がどのような経験かという命題と、当院がそれを重視するという方針は、分けて示す必要がある。
同じ理由から、作り手が「その人らしさ」を読み取ること自体を問題にする必要もない。その解釈は、具体的な形を提案するために必要である。
問題になるのは、作り手が読み取った「その人らしさ」を、本人に確かめる必要のない完成基準として固定してしまう場合である。そのとき、患者本人が自分のものとして受け止めるべき口元が、作り手の解釈した患者像によって、あらかじめ決められてしまう。
これは、再認識の判断を作り手が代替する問題である。
さらに、「人工物らしくない」という否定の意味内容に、その患者像への適合まで含めるのであれば、『否定の形式』で論じた周遮との対応も生じる。作り手が形を提案したことや、作り手自身が完成を判断したことだけで、否定の形式が周遮へ変わるわけではない。
ゲラーは、審美を考えるパラメータとして、健康、生命力、強さ、美しさ、幸福感を挙げ、そのほかにも多くのパラメータがありうると述べている(12)。
この発言は、審美を形態だけで閉じない姿勢として読むことができる。ただし、列挙の順番から、ゲラーが幸福感を最上位に置いていたことや、幸福感について本人だけに判定権を認めていたことまで導くことはできない。また、健康や美しさについても、単純に作り手だけが評価するものと決めることはできない。
本稿がそこに見いだすのは、複数の評価を一つの規格だけに還元しない姿勢との並行である。
七.連続と変化
再認識という概念を臨床へ借りるために、常住する不変の自我を前提する必要はない。この点を、記憶や行為をめぐる中観の議論と比較しておく。
シャーンティデーヴァは『入菩薩行論』で、自証を認めなければ記憶を説明できないという問いに対し、過去の経験との関係によって記憶を説明している。
また、行為した者と、その結果を受ける者については、相続の一性に依拠して語られると述べ、不変の自我を認める立場を批判する(13)。
これらの議論は、記憶や、世俗的な意味での「自分」について語ることを認めながら、不変の主体まで立てる必要はないという区別を示している。
これはウトパラデーヴァに対する直接の応答ではない。また、ここで引用した数偈だけによって、シヴァ派の主体論への反論が完了するわけでもない。
本稿に必要なのは、経験の連続を語るために、絶対的主体が存在するかどうかという存在論まで決着させる必要はない、という限定である。
臨床に置き換えて考えると、「元の自分に戻った」と感じることは、過去のある時点の顔をそのまま再現することに限られない。
顔も表情も、本人が自分について抱いている理解も、年月とともに変化する。その変化を含んだ現在の自分として、治療後の口元を認め直すことができる。
過去の写真は、その人がどのような口元を自分の顔として大切にしてきたのかを知る資料になる。写真に写った若い頃の歯を再現すれば必ず再認識が起こるとは限らず、現在の顔に若い印象の歯を作れば必ず再認識が妨げられるとも言えない。
白さや摩耗の程度だけを根拠に、再認識が成立するかどうかを作り手が先に決めることは、第六章で述べた区別に反する。
「年齢相応」という見立ても、形を考える際の一つの解釈である。その解釈を、本人が受け入れるべき規格として扱えば、過去の一時点の顔を固定することと同じ問題が生じる。
若い頃の口元を求める希望も、これまでとは違う口元へ変わりたいという希望も、現在の本人が自分についてどのように理解しているのかとの関係で確かめる必要がある。
本稿の第二の柱は、過去とのつながりを否定するものではない。
再認識が結び付けるのは、現在の口元と、過去の経験や将来への希望も含めて、本人が現在抱いている「自分の顔」についての理解である。新しい形を含んだ認め直しも、その理解が更新されたものとして記述できる。
顔の形が以前と同じであることと、本人がその口元を自分のものとして受け止められることは、同じ条件ではない。
作り手が、本人の年月や経験を外からすべて知ることはできない。それでも、本人の言葉や過去の写真、表情の変化などを通じて理解を深めることはできる。
本人の経験を理解する手がかりがあることと、その経験を作り手が代わって成立させられることは区別しなければならない。
常住の主体を認めれば、必然的に過去の顔を固定することになる、という推論も成り立たない。
形而上学的な主体が不変であることと、身体や外観が不変であることは別の命題である。本稿が絶対的主体を採用しない理由は、そこから特定の美的な結論を否定するためではない。ここで扱う臨床経験を記述するために、その存在論を前提する必要がないからである。
八.限界と留保
第一に、本稿は思想上の影響関係を主張しない。
ゲラーがプラティヤビジュニャー派を学んだことを示す資料は、本稿では確認していない。また、プラティヤビジュニャー派の思想家が審美修復について論じたわけでもない。本稿で行っているのは、原典上の議論を区別したうえで、その一部の構造を臨床へ転用することである。
第二に、本稿でいう再認識は、プラティヤビジュニャー派が論じる解脱としての再認識と同じではない。
同派では、認識し行為する自己の本性を絶対的な意識として認め直すことが問題となる。本稿で扱うのは、治療を受けた本人が、具体的な治療後の口元を自分のものとして受け止めることである。
借りているのは、すでに成立していることと、それが改めて認められることとの区別であって、再認識の内容や、その究極的な根拠までではない。
第三に、本稿は、再認識がどのような条件で、どの程度の頻度で生じるのかを検証した臨床研究ではない。
行っているのは、概念を定義し、異なる評価を区別する臨床論考である。症例間の比較や経時的な検証を行うのであれば、本人の語りをどのように記録し、満足度や外観の評価とどのように区別するかについて、別の方法論が必要になる。
第四に、再認識と満足は同じではない。
自分の口元だと感じながら、その色や形に不満を持つことはありうる。仕上がりを美しいと評価していても、自分の口元としてはなじんでいないと感じることも考えられる。
また、再認識が成立すれば必ず幸福感が生じる、という因果関係も本稿は主張しない。
第五に、再認識が成立していないことだけで、修復物の再製作や追加の治療が正当化されるわけではない。
何が本人との隔たりになっているのか、それが形を変更することで扱える問題なのかを、生物学的・機能的・技術的条件と合わせて検討する必要がある。
本稿でいう「待つ」とは、本人の経験を、作り手による完成判断で先取りしないという意味である。本人の訴えに応答せず、時間が経つのをただ待つという意味ではない。
最後に、原典の照合範囲を記しておく。
IPKとウトパラデーヴァの自註Vṛtti、アビナヴァグプタのVimarśinī、『入菩薩行論』および『ヴァーキヤパディーヤ』については、注記したGRETIL電子本文を参照した。『入中論註』はBibliotheca Polyglottaのチベット語本文と英訳を用いた。ツォンカパの湖の例は、四津谷孝道の論文に引用された本文と分析によって確認した。
ただし、これらの電子本文を確認したことと、各底本や写本を独立に校合したことは同じではない。略号、偈番号、臨床への転用範囲については注に示す。
九.結び
本稿の柱は二つである。
第一に、患者本人は否定によって作り出されるのではなく、修復が行われる当の人として、すでに前提されている。
第二に、再認識とは、現在の口元と、本人が自分の顔について現在抱いている理解とを結び直すことであり、過去の外観をそのまま再現することを必要としない。
第一の柱は、患者本人に言及することと、否定によって別の法を含意することを区別する。第二の柱は、人工物としての違和感がないことからは導けない、患者本人の側の経験を記述する。
この二つを結び付けるために、中観とプラティヤビジュニャー派の存在論を一つにする必要はない。
修復物を製作する技術的な行為者は、歯科医師と歯科技工士である。作り手は、その修復物が患者の口元として成立することを目指して形を作り、口元の中で妥当かどうかを確かめる。
しかし、その形を「これは私だ」と受け止める経験は、患者本人の側にある。作り手の解釈は形の提案を支えることはできても、本人の認め直しに代わることはできない。
人工物としての違和感を取り除いただけで、その人の口元に還ったとは言えない。
形を整え、本人の言葉を聴き、必要であれば提案した形をもう一度確かめる。そのうえで、治療後の口元を自分のものとして認める場所を、本人に残す。
臨床は、そこまでを整えて、待つ。
注
- 『否定の形式』第二章・第五章・第六章。無遮の規定は四津谷孝道「Tsong kha paにおける無自性論証と純粋否定」(1998)による。同論文所引『善説心髄』LN.pha.113b6–114a5 など。無遮を治療行為全体へ適用せず、不在の判断の意味内容に関する区別として用いること、患者本人を前提とすること、違和感の不在と再認識を区別することは、同論文の臨床的な転用を行う『否定の形式』の議論である。
- IPK 1.3.1–7、1.4.3–4 およびウトパラデーヴァの Vṛtti。IPK 1.2 は、仏教側の議論を提示する前主張の部分であり、1.2.3 の常住の自己をめぐる問いだけを取り出して、仏教側の最終的な主張としてはならない。本文では、1.3 以降の応答を中心に要約した。参照した GRETIL の IPK 電子本文には、自註 Vṛtti を「Ipv」と表示する箇所があるが、本稿では、アビナヴァグプタの Vimarśinī と区別して「Vṛtti」と記す。
- チャンドラキールティ『入中論註』6.72・6.76 の註。6.72 の註に剣、指先、力士、火、眼の例があり、6.76 の註では『楞伽経』を引く。Bibliotheca Polyglotta 所収、Liland 2019 英訳・チベット語本文による。ここでの自証批判を、人が自分の経験を知り、語ること一般の否定として臨床へ移してはならない。同じ箇所の 6.73–75 の註には、記憶や「私は見た」という世俗的な語りについての議論がある。
- IPK 1.3.2、1.5.11。後者の水晶の例は sphaṭikādijaḍopamaḥ。Vimarśinī 1.5.11 も参照。prakāśa、vimarśa、pratyabhijñā を、互いに交換可能な術語として用いない。本文の「反省」は vimarśa の訳語であり、日常語の反省や、臨床における特定の認め直しより広い働きを指す。
- IPK 1.6.1–5 および Vṛtti。1.6.3 は、壺と非壺の双方を現すことと、そのうえで非壺を排除することとの関係を述べる。1.6.1 の純粋な「私」の自覚と、1.6.4–5 の身体等に関わる分別的な「私」との区別にも留意する。本稿の臨床的な再認識を、前者と同一視しない。
- バルトリハリ『ヴァーキヤパディーヤ』3.7.101–104。行為者の自立性は 3.7.102 の svātantryaṃ kartur ucyate に示される。GRETIL 電子本文の底本表示は Wilhelm Rau, Wiesbaden, 1977。IPK 2.2.6、2.4.16、2.4.18–21 および Vṛtti では、行為要素の統合と主体、行為者性と意識の関係が論じられる。文法上の行為者性、同派の宇宙論的な自在性、臨床での製作や選択の主体は、同じ範囲の概念ではない。
- IPK 1.1.2–3 および Vṛtti。第二偈の ādisiddhe は、知者・行為者である自己が既に成立していることを示す。第三偈は、そのような主体が、迷いのために認められないことを述べる。本稿は、この冒頭の構造を根拠に、同派を「否定後に主体を新たに作り出す思想」とは要約しない。ただし、主体が既に成立すると説かれること自体も、中観との存在論上の一致を意味しない。
- 四津谷 1998 所引『善説心髄』LN.pha.115b4–116a1。湖の上の煙を排除する表現が、煙の不在を示し、他の法を含意しないことを説明する。参照したのは同論文所引のチベット語本文と訳・分析であり、当該フォリオを所収する版全体の独立した校合ではない。
- 否定基体(dgag gzhi)という術語に対応させた臨床上の整理。ただし、患者を否定基体とすることや、患者・顔・本人の自己理解を区別することは、本稿の提案である。湖の例の原典箇所に、この臨床的対応や「否定基体としての患者」という規定が記されているという意味ではない。本稿では、この語のツォンカパ原典上の用例位置を特定していない。
- IPK 3.2.2、3.2.8、3.2.13–15 および Vṛtti、Vimarśinī 3.2.13–15。3.2.13 は ahantā と kartṛtā に言及し、自註も ahantābhimāna による認識者性を述べる。したがって、この認識者を、「私」性や vimarśa が全面的に消えたものと一括してはならない。Vimarśinī 3.2.15 における睡眠等の区分も、臨床で口元がなじまないという経験を分類するためのものではない。なお、IPK 3.2.18 の「三つ」は、自註では覚醒・夢・熟睡を指し、3.2.6–9 の認識者の分類とそのまま同一視できない
- Adar P. Inside the Mind of Willi Geller, MDT. Journal of Cosmetic Dentistry. 2010;26(2):20–24. Oral Design 公式サイトの再掲本文を参照。「典型的なウィリーのクラウン」に関する述懐は Part 1。作り手の様式と患者への帰属を分けて読むことは、本稿の解釈である。
- Adar P. Inside the Mind of Willi Geller, MDT, Part 2. Journal of Cosmetic Dentistry. 2010;26(3):12–19. 同公式再掲本文を参照。健康、生命力、強さ、美しさ、幸福感の列挙と、パラメータは多くありうるという発言による。列挙の順序を、優先順位や判定権の所在の証明として用いない。
- シャーンティデーヴァ『入菩薩行論』9.24、9.70、9.73–74。番号は本稿が参照した GRETIL 電子本文に従う。9.24 は、自証がなければ記憶をどう説明するかという問いに対し、経験との関係により記憶を説明する箇所であり、この偈だけを「常住の自我が不要であることの証明」とはしない。9.70 は不変の自我の働きを問い、9.73 は行為者と享受者が相続の一性に依拠して説かれるとする。版・分節による偈番号の相違があるため、別の版を用いる際には、9.24 の冒頭 yadi nāsti svasaṃvittiḥ、9.70 の冒頭 athāvikṛta evātmā、9.73 の後半 saṃtānasyaikyamāśritya を照合の手がかりとする。
文献
- Utpaladeva. The Īśvarapratyabhijñākārikā of Utpaladeva with the Author’s Vṛtti. Critical Edition and Annotated Translation. Torella R, ed. and tr. Serie Orientale Roma LXXI. Rome: IsMEO, 1994. Reprint: Delhi: Motilal Banarsidass, 2002. Second revised edition, 2021.
- Utpaladeva. Īśvarapratyabhijñākārikā with Vṛtti. Kaul Shāstrī M, ed. Kashmir Series of Texts and Studies 34. Srinagar, 1921.(GRETIL 電子本の底本。本稿の偈番号はこれによる)
- Abhinavagupta. Īśvarapratyabhijñāvimarśinī. Iyer KAS, Pandey KC, eds. Bhāskarī vols. I-II (Sanskrit text with the Bhāskarī). Princess of Wales Saraswati Bhavana Texts 70, 83. Allahabad (vol. II, 1950; vol. I, year unconfirmed). Pandey KC, tr. Bhāskarī vol. III (English translation). Saraswati Bhavana Texts 84. Lucknow, 1954. Reprint: Delhi: Motilal Banarsidass, 1986.(梵文は GRETIL 電子本による。底本は一九八六年再版)
- Candrakīrti. Madhyamakāvatāra. Chapter 6 verses: Li Xuezhu, ed. Journal of Indian Philosophy, 2015. DOI 10.1007/s10781-014-9227-6. Tibetan: La Vallée Poussin L, ed. Bibliotheca Buddhica IX. D 3862.
- Candrakīrti. Prasannapadā, chapter one. MacDonald A, ed. and tr. In Clear Words. 2 vols. Wien: Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften, 2015.
- Candrakīrti. Madhyamakāvatārabhāṣya. Tibetan text with English translation: Liland F, tr. Bibliotheca Polyglotta, University of Oslo, 2019. https://www2.hf.uio.no/polyglotta/index.php?page=volume&vid=1113
- Śāntideva. Śikṣāsamuccaya. Bendall C, ed. Bibliotheca Buddhica I. St. Petersburg, 1897-1902.
- Śāntideva. Bodhicaryāvatāra with Pañjikā of Prajñākaramati. Vaidya PL, ed. Buddhist Sanskrit Texts 12. Darbhanga: Mithila Institute, 1960.
- Bhartṛhari. Vākyapadīya. Kāṇḍa 3, Sādhanasamuddeśa.(GRETIL 電子本による。底本は未確認)
- Torella R. Studies in Utpaladeva’s Īśvarapratyabhijñā-vivṛti. Part I. Apoha and anupalabdhi in a Śaiva garb. In: Preisendanz K, ed. Expanding and Merging Horizons. Wien: ÖAW, 2007:473-490.
- Torella R. From an Adversary to the Main Ally: The Place of Bhartṛhari in the Kashmirian Śaiva Advaita. In: Kaul M, Aklujkar A, eds. Linguistic Traditions of Kashmir. New Delhi: DK Printworld, 2008:508-524.
- Lawrence DP. The Mythico-ritual Syntax of Omnipotence: On Utpaladeva and Abhinavagupta’s Use of Kriyā-kāraka Theory to Explain Śiva’s Action. 同上論集所収。
- Sanderson A. The Śaiva Exegesis of Kashmir. In: Goodall D, Padoux A, eds. Mélanges tantriques à la mémoire d’Hélène Brunner. Pondicherry: IFP/EFEO, 2007:231-442.
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執筆者
田中良一
表参道歯科アールズクリニック院長
東京医科歯科大学(現 東京科学大学)卒業、山王病院歯科医長(審美歯科・歯周補綴担当)を経て開業。審美修復をはじめ、歯周病やインプラント分野でも国内外で研鑽を積み、知識と技術を培ってきました。歯や歯ぐきの健康、かみ合わせを確かめながら、修復した歯が顔立ちや表情になじみ、ご本人が自分の口元として感じられることを大切にしています。
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執筆者
田中良一
表参道歯科アールズクリニック院長
東京医科歯科大学(現 東京科学大学)卒業、山王病院歯科医長(審美歯科・歯周補綴担当)を経て開業。審美修復をはじめ、歯周病やインプラント分野でも国内外で研鑽を積み、知識と技術を培ってきました。歯や歯ぐきの健康、かみ合わせを確かめながら、修復した歯が顔立ちや表情になじみ、ご本人が自分の口元として感じられることを大切にしています。
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