
Written by 田中良一 表参道歯科アールズクリニック院長
この記事は、人工物らしさをどのように取り除き、患者本人の口元をどのように残すかという、審美修復の治療目標を考察した臨床論考です。前歯のセラミック修復を念頭に、ツォンカパが論じた「無遮」と「周遮」という二つの否定の形式を手がかりとして、自然に見える修復とは何かを検討します。仏教哲学そのものを論じることが目的ではありません。
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抄録
審美修復には、人工物としての違和感や、過去の治療が残した不調和を取り除くという否定の側面がある。本稿では、その治療目標を記述するために、ツォンカパ(1357〜1419)が論じた二種の否定を用いる。一つは、否定対象を排除したうえで他の法を含意する周遮(paryudāsa-pratiṣedha, implicative negation)、もう一つは、他の法を含意しない無遮(prasajya-pratiṣedha, non-implicative negation)である。否定の形式と、具体的な形を作る治療行為は区別される。人工物としての違和感がないことから、特定の色や形が導かれるわけではない。ある形を実際に製作したことによって、否定の形式が変わるわけでもない。本稿が問うのは、人工物としての違和感がないという状態を、作り手が設定した規格への適合に置き換えていないかということである。ウィリー・ゲラー(Willi Geller)が「典型的なウィリーのクラウン」という評言を退けた言明を、この問題との関係から読む。本稿でいう「無遮としての審美」とは、人工物としての違和感がないことを確かめる際に、特定の代替規格への適合を、その否定の意味内容に含めないという審美修復の一側面を指す。患者本人は、この否定によって作り出されるのではない。修復が行われる当の人として、すでに前提されている。違和感の不在も、本人がその口元を自分のものとして認めることや、治療全体の成功まで含意するものではない。本稿ではこれらを区別し、哲学的概念の借用が及ぶ範囲を明らかにする。
一. 問題の所在
修復物が「作品」になることがある。
ここで「作品」と呼ぶのは、それ単体では鑑賞に耐える完成度を備えていながら、口の中では修復物だけが目立って見える状態を指す。写真に撮れば美しく、単体で見れば申し分がない。それでも患者の口元を正面から見ると、修復した部分だけが前に出て見えることがある。
この現象は、技術が不足しているために起こるとは限らない。高い技術によって作り手の様式が精巧に表現されていても、その様式と患者の顔との関係が合っていなければ、修復物は口元の中で独立した作品のように見える。
ウィリー・ゲラー(Willi Geller)は、この問題を早い時期から意識していた。2010年の対談で、彼は40年以上前の出来事を振り返っている。同僚がゲラーの手がけた修復物を見て、「これは典型的なウィリーのクラウンだ」と述べた。ゲラーは、その言葉を忘れたことはなく、気に入らなかったと語っている。自分の手がけたものが「典型的なウィリー」に見えることを望まず、自然に見えることを望んだのである(1)。
多くの職業では、自らの様式が認識されることは達成の証となりうる。しかしゲラーの述懐からは、審美修復では、それがかえって目標からの逸脱を示す場合があると読める。
本稿は、この転倒を「否定の形式」という角度から扱う。審美修復のすべてが否定に尽きるわけではなく、歯の形を作り、失われた機能を回復するという構成の側面もある。そのうえで、人工物としての違和感を取り除くという目標に着目すると、「違和感がない」とは何を意味し、どこまでは意味しないのかが問題になる。
この区別を明確にするため、本稿ではツォンカパ(Tsong kha pa Blo bzang grags pa, 1357〜1419)が論じた無遮という概念を用いる。仏教論理学の分類に治療工程を当てはめることが目的ではない。否定されたものと、その否定からは導くことのできないものとの境界を明確にするためである。
二. 否定の二つの形式
インドの文法学に由来する二種の否定の区別は、仏教思想でも論じられてきた。本稿では、ツォンカパの規定に即して、次のように区別する(2)。
一つは周遮(しゅうしゃ、paryudāsa-pratiṣedha、定立的否定)である。周遮は、否定対象を排除したうえで、他の法(chos gzhan、否定対象の否定以外のもの)を含意する。
たとえば、ある人が王族かバラモンのどちらかであると分かっている文脈で、「その人はバラモンではない」と述べれば、王族であることが含意される。
もう一つが無遮(prasajya-pratiṣedha、純粋否定)である。無遮は否定対象を排除するが、それによって他の法を含意しない。
無遮は、何も確定しない弱い否定ではない。ツォンカパにおいて、無遮は他の法を証明しないが、否定対象が否定されたこと自体は確かに証明される (2)。
この点は、ツォンカパによる「唯(tsam)」という語の分析にも現れている。「否定対象を唯否定するのみである」と述べるとき、「唯」という語が排除しているのは、否定対象の否定以外のものが定立されることである。否定そのものが定立されることまで排除しているのではない(3)。
ツォンカパは、この関係を湖の例で説明する。「湖の上に煙がない」という表現は、湖の上に煙があることを排除するだけであり、それ以外の何かを含意しない。それでも、煙がないこと自体は確かに示され、確定される。排除と不在の確定とは、一方がなければ他方もない関係にある(4)。
ここでいう排除は、煙を物理的に吹き払うことではない。「湖に煙がある」という内容を退け、煙がないことを確定することである。何かが存在しないと判断することと、実際に存在していたものを取り除くことは区別しなければならない。
本稿では、『善説心髄』の記述を、四津谷孝道の分析と同論文に引用されたチベット語本文を通して参照する。術語の対応を記せば、周遮は ma yin dgag、無遮は med dgag にあたる。英語では、それぞれ implicative negation、non-implicative negation を用いる。
ツォンカパは、無自性を確定する否定を無遮として捉えた。事物が自性(svabhāva、それ自身の側から成立する固有のあり方)を欠いていることを確定するが、その不在の背後に別の実体を置くことはしない(5)。
空性そのものを新たな実体として立てれば、自性を否定する議論の中へ、別の自性を持ち込むことになる。
周遮と無遮の違いは、否定の強さや徹底の度合いではない。何かを否定したあとで何を製作したかという時間的な順序の違いでもない。その否定が、文脈を含めて何を含意するのかという違いである。
三. 否定対象の画定
無遮を正しく理解するには、何を否定するのかを正確に見極めなければならない。ツォンカパは、否定すべき対象、すなわち所遮(しょしゃ、dgag bya)をどのように定めるかを重視した(6)。
否定対象を広く取りすぎれば、日常的な存在や因果関係まで否定することになり、虚無主義、すなわち断見に陥る。狭く取りすぎれば、本来否定すべき自性が残る。問われているのは、現象をそのまま認めるか、すべてを消し去るかという二者択一ではない。世俗の現象を認めながら、そこに自性を認める誤りを見極めることである。
審美修復の診断にも、取り除くべきものと維持すべきものを分ける作業がある。ただし、診断全体を所遮の画定に還元することはできない。本稿が対応させているのは、その作業の一側面に限られる。
本稿で否定の対象とするのは、修復物が患者の顔や口元との関係の中で、人工物として浮き立って見えることである。過去の治療の痕跡も、それが不調和の原因となっている範囲で否定対象となる。治療を受けたという事実そのものや、修復物が存在していること自体を否定するわけではない。
歯質、咬合の安定、歯周組織の健康は、修復を成立させるために保全または回復すべき条件である。見た目の違和感がなくなっても、こうした条件が損なわれていれば、治療全体が成立したとはいえない。この区別は、審美面で否定対象を定める際にも維持される。
白さや左右対称であること自体を、不調和と同一視することもできない。問題になるのは、その色や形が、その人の顔の中でどのように見えるかである。否定対象を特定の色や形の一律な排除として定めれば、診断の段階ですでに別の様式を持ち込むことになる。
違和感の原因を見定めないまま材料や形だけを変えても、同じ不調和が残る場合がある。何が、どの関係において人工物らしく見えるのかを特定する必要があり、色調、輪郭、唇の動き、隣接する歯との関係などを具体的に検討する。本人の訴えも、その特定に用いる。
確認するのは、具体的な条件のもとで生じている違和感である。作り手と本人の判断が異なる場合、その違いを曖昧にしたまま「違和感はない」と一般化することはできない。
将来の再治療に対する不安も、外観上の違和感とは別の問題である。外観上の違和感がないことから、将来の再治療が不要であることまで導かれるわけではない。
四. 規格による否定の置き換え
ここからは、二種の否定の区別が、臨床上の目標をどのように明確にするかを考える。
極度に白く、隙間なく整い、左右対称に並んだ歯を理想とする立場がある。「自然な色調」「適度な不揃い」「年齢相応の摩耗」を理想とする立場もある。どちらも、色や形について肯定的な内容を持っている。こうした外観を好むことや、製作の参考にすること自体は、本稿の問題ではない。
問題になるのは、「人工物らしくない」という否定を用いながら、特定の規格への適合まで、その否定の意味に含める場合である。
たとえば、「人工物らしくない」という表現によって、違和感がないことに加えて「適度な不揃いを備えていること」まで肯定される文脈では、その否定は不在だけでなく、特定の形態を含意している。そのような用い方は、他の法を含意する否定として、周遮に対応する。
不揃いを選ぶ根拠そのものは、人工物としての違和感を否定したことだけからは与えられない。
「この口元には人工物としての違和感がない」という判断を、その違和感の不在だけを確定するものとして用いるなら、そこから特定の色調や不揃い、摩耗が導かれることはない。どのような形によってその不在が成立しているのかは、別に確認する必要がある。
自然に見せるために摩耗や不揃いを実際に作ったという事実だけで、その否定を周遮と判定することはできない。症例ごとに異なる形を作っていても、作り手が読み取った「その人らしい形」への適合を、人工物としての違和感がないことの意味内容にしているのであれば、同じ問題が生じる。
作り手の様式が症例を越えて繰り返し現れることは、規格化を疑う手がかりにはなる。共通する特徴が見られるというだけで、規格が押しつけられたと証明できるわけではなく、症例ごとに形が異なることも、規格が存在しない証明にはならない。
問うべきなのは、その形が患者の顔の中でどのように見えるかを、作り手の規格への適合とは別に確かめているかということである。
「典型的なウィリーのクラウン」という評言に対するゲラーの不満も、この問いとの関係で読むことができる。
ゲラー自身が述べているのは、自分の様式だと分かるものではなく、自然に見えるものを作りたいということである。この言葉から、その修復物が実際に患者と調和していなかったことや、ゲラー自身が周遮と無遮という二種の否定を区別していたことまで読み取ることはできない。
本稿はこの発言から、作り手の特徴が治療目標そのものに置き換わることへの警戒を読み取る。
ゲラーに倣う場合にも、同じ問いは残る。ゲラーの作品に見られる特徴を再現できたことと、その患者に生じていた違和感を解消できたことは、別々に判定しなければならない。
五. 無遮としての審美
本稿が「無遮としての審美」と呼ぶのは、人工物としての違和感がないことを確認する際に、特定の代替規格への適合を、その否定の意味内容に含めないことである。
これは修復行為のすべてを説明する概念ではない。治療目標を記述し、その成否を判断する一側面を指している。
具体的な形を作らないという意味でもない。修復物には、色、輪郭、表面性状といった具体的な形態が必要である。その形を考えるために、顔立ち、唇の動き、隣接する天然歯、咬合の様式、本人の希望などを参照する。こうした条件が分かったからといって、一つの完成形が自動的に定まるわけではない。
作り手は、得られた条件を解釈し、一つの形として提案する。その提案が妥当かどうかは、実際に患者の口元へ置いたときの関係の中で確かめなければならない。
ある形が一人の患者の口元に違和感なく収まったからといって、その形を次の患者にも用いるべきだという結論は出ない。否定が成立したという判断は、その患者の、その条件において成立したものである。
この意味で、「人工物としての違和感が消え、患者本人が残る」と述べることができる。
患者本人が否定によって新たに生み出されるわけではない。患者は治療前から、修復が行われる当の人として存在している。「本人が残る」とは、その人が作り手の様式を示すための対象へ置き換えられず、修復物がその人との関係の中で評価されるという、臨床上の記述である。
無遮は無力な否定ではない。人工物としての違和感がないことを確かめられたのであれば、それ自体が一つの達成である。
第二章で扱った湖の例から導くことができるのは、あるものを排除することと、その不在を確定することとの関係までである。そこから、口元が美しいこと、本人が満足していること、治療全体が成功していることまで証明されるわけではない。
「自然に見える」という言葉を、人工物としての違和感がないという意味で用いる場合にも、その言葉に別の肯定的評価を無断で付け加えることはできない。
修復物が「見えなくなる」と述べるときも、物体として見えなくなるという意味ではない。人の顔を見たときに、修復物だけが人工物として浮き立って見えなくなる、という意味である。本稿が扱うのは、この達成である。
ゲラーは、笑顔はその人と調和しているべきであり、自然が作るより白い笑顔であっても、その人と調和していれば美しくなりうると述べている。そして、審美において調和はきわめて重要であると続けている(7)。
この発言では、歯の白さの絶対値だけで美しさが決まるとは考えられていない。その人との関係が問われている。もっとも、その人との関係を重視すること自体が無遮の定義と一致するわけではない。本稿がそこから読み取るのは、ある白さを否定したあとに別の白さを正解として置くという、単なる規格の交替にとどまらない態度である。
同じ対談で、ゲラーは審美のパラメータを問われ、健康、生命力、強さ、美しさ、幸福感を挙げている。さらに、身体的には美しくなくても、親切で善良な人は美しいと感じられると述べ、パラメータはほかにも多くありうると結んでいる(7)。
この列挙は、五つの項目で閉じた体系として提示されたものではない。判断をあらかじめ固定した項目だけで尽くさない態度として読むことはできるが、その読み自体は本稿による解釈である。
そして、人工物としての違和感がないことを確認したあとにも、なお一つの問いが残る。
その口元を、本人は自分のものとして認めるだろうか。
外観上の違和感がないことと、本人が「これは私だ」と認めることは、同じ内容ではない。前者が成立していても、それだけで後者が成立したことにはならない。
六. 限界と留保
第一に、本稿は影響関係を主張するものではない。
ゲラーが中観思想を学んだという証拠はなく、ツォンカパが審美修復について論じたわけでもない。ゲラーの言葉に対する本稿の読みと、中観から借りた概念は、本稿が立てた問いによって結びつけられている。
第二に、自性の不在と、修復物の違和感の不在は異なる。
自性の不在は、事物がどのように成立しているかに関わる主張である。一方、修復物の違和感の不在は、修復物と患者との関係の中で、どのように見えるかについての判断である。
修復物が独立した鑑賞の対象として見えることを、中観における自性と同一視することはできない。本稿が借りているのは、否定が他の内容を含意するかどうかという区別だけである。
第三に、否定の論理形式と、治療によって状態を変える行為は同一ではない。
修復物を製作すること、ある形を試みること、その形を修正することは、いずれも臨床上の行為である。それらの行為に肯定的な目標や内容が含まれているというだけで、人工物としての違和感がないことを表す否定が周遮になるわけではない。
修復物や患者が存在していることも、無遮を妨げる理由にはならない。無遮が含意しないのは、否定対象の否定以外の内容であり、判断の前提となるすべてのものを消去するという意味ではない。
第四に、周遮は一般に誤りで、無遮は一般に正しいという価値判断を、この区別から導くことはできない。
本稿が臨床上の問題としているのは、患者との関係の中で確かめるべき違和感の不在を、作り手の規格への適合に置き換えることである。無遮を手がかりとして、その置き換えが起きていないかを点検することは、本稿が選んだ方法であって、特定の治療方法の優位性や予後を証明するものではない。
第五に、本稿の到達点は、審美修復が成立するための条件の一部を明確にすることにある。
生物学的・機能的・技術的に治療が成立していることや、本人が治療後の口元を自分のものとして再認識することは、人工物としての違和感がないということだけでは確定できない。
審美を最初から目標としていない場合と、外観上の違和感は解消されたにもかかわらず、本人の再認識が成立していない場合も同じではない。後者を、否定が過剰だった、あるいは所遮の画定を誤ったと一律に説明することはできない。
本稿が提示したいのは、一つの問いである。
自らの修復において、何を否定し、その不在を何によって確かめているのか。作り手の規格に合っていることを、患者の違和感が消えたことの代わりにしていないか。
この問いは、材料の選択にも、技法の巧拙にも還元できない。
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注
- Adar P. Inside the Mind of Willi Geller, MDT. J Cosmet Dent. 2010 Summer;26(2):20–24. 自然歯の形態・構造の研究についての質問に対する回答。本文は oral design 公式サイトに掲載された対談の転載でも確認した。
- 二種の否定に関するツォンカパの規定は、『善説心髄』(Legs bshad snying po、略号 LN)による。定立的否定は否定対象を直接排除して他の法を含意するもの(LN.pha.113b6–114a1)、純粋否定は他の法を含意しないものとされる(LN.pha.114a2–3)。「含意する」(’phen pa)と「証明する」(sgrub pa)の対応は LN.pha.114a4、「他の法」が否定対象の否定以外のものを指すことは LN.pha.114a4–5。本文の王族とバラモンの例は、文脈からの含意を扱う LN.pha.114b4–115a2 による。以上の原文・葉数・版の帰属は、四津谷孝道[1998]第三節および注6、8、10–12に従う。LN の底本を独立に校合したものではない。同論文注3がツォンカパについて暫定的に採る「純粋否定」の訳語を、本稿でも用いる。
- LN.pha.115b3–4。四津谷[1998]第三節および注16所引の原文と分析による。
- LN.pha.115b4–116a1。四津谷[1998]第三節および注19–20による。排除(rnam par bcad pa, vyavaccheda)と不在の確定(yongs su gcod pa, pariccheda)の相補的関係を扱う箇所。同論文は、第三の可能性を許さない相互矛盾の関係についても説明する。本稿はこの関係を、物理的な除去と肯定的な審美評価との同一性にまで拡張しない。
- 四津谷[1998]第二・三節、とくに注4および注17。無自性を確定する否定が純粋否定であること、無自性そのものが実体的に有ることを定立しないことに関する分析と所引の原文による。
- Tsong-kha-pa. The Great Treatise on the Stages of the Path to Enlightenment, Volume Three. Lamrim Chenmo Translation Committee tr. Snow Lion Publications, 2002. 所遮の画定とその過大・過小な理解を扱う箇所。英訳の該当節は、Glen Svensson 公開の抜粋資料 The Great Treatise on the Stages of the Path to Enlightenment: Outlines and Quotes の Volume Three、原書頁126–127および195に対応する箇所で確認した。これは英訳抜粋による確認であり、チベット語原典との校合ではない。
- Adar P. Inside the Mind of Willi Geller, MDT — Part 2. J Cosmet Dent. 2010 Fall;26(3):12–19. 笑顔の美しさと審美のパラメータについての質問に対する回答。本文は oral design 公式サイトの転載でも確認した。列挙を閉じない態度についての解釈は、本稿に属する。
文献
- Adar P. Inside the Mind of Willi Geller, MDT. J Cosmet Dent. 2010 Summer;26(2):20-24.
- Adar P. Inside the Mind of Willi Geller, MDT — Part 2. J Cosmet Dent. 2010 Fall;26(3):12-19.
- Tsong-kha-pa. The Great Treatise on the Stages of the Path to Enlightenment, Volume Three. Translated by the Lamrim Chenmo Translation Committee. Joshua W. C. Cutler (Editor-in-Chief), Guy Newland (Editor). Snow Lion Publications, 2002.
- Legs bshad snying po (Drang ba dang nges pa’i don rnam par phye ba’i bstan bcos legs bshad snying po). The Collected Works of Rje Tsong kha pa Blo bzang grags pa, vol. 21, Delhi, 1973.
- 四津谷孝道「Tsong kha pa における無自性論証と純粋否定」『仏教文化研究論集』第二号、一九九八年、五八〜八二頁
- 四津谷孝道『ツォンカパの中観思想 ことばによることばの否定』大蔵出版、2006.



執筆者
田中良一
表参道歯科アールズクリニック院長
東京医科歯科大学(現 東京科学大学)卒業、山王病院歯科医長(審美歯科・歯周補綴担当)を経て開業。審美修復をはじめ、歯周病やインプラント分野でも国内外で研鑽を積み、知識と技術を培ってきました。歯や歯ぐきの健康、かみ合わせを確かめながら、修復した歯が顔立ちや表情になじみ、ご本人が自分の口元として感じられることを大切にしています。
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